20年来の友人のSはバングラデシュ系イギリス人の元建築家で今はドバイとベルリンを行き来しながら世界を批評するカルチュアル・クリティックだ。ヨーロッパに行く予定があると、ダメ元で彼に連絡することにしている。前回会ったのは、2年ほど前だろうか、ポルトガルのポルトで彼が司会を務めるシンポジウムだった。今回、ベルリンに行くことになったので、彼に一報した。ここ10年ぐらい拠点のひとつにしているからだ。連絡すると、なんと私がベルリンを発つ日にSがベルリンに到着するという。なんというすれ違い。と、口惜しく思っていたところに、私が予約していた飛行機会社からフライトキャンセルの連絡。どうやらパリのストライキが激化して、便数を減らしているらしい。急なアクシデントで違う景色が見えることがある。早速、Sにフライトが変更になったことを告げると、いつも通り暗号のようなメッセージが届いた。
Come to eat at my flat.
なんでも知り合いの人からサブレットしているフラットだという。何事にも評価の厳しい彼が気に入って住むようなところなんだから特別な場所なのだろう。そのフラットはチェックポイントチャーリーにあるという。旧西ベルリンで東に行くときの検問があったところだ。地図で調べるとその近くにユダヤ博物館がある。2001年にポーランド系のアメリカ人ダニエル・リーベスキンドによりデザインされた博物館だ。そういえば、まだ行ったことがなかったので、Sの家に行く前に寄っていくことにした。
地下鉄から降りたチェックポイント・チャーリーはここに一体何があったのだろうと不思議に思うくらい小ぎれいで新しい建物が連なっていた。夕方、すでに真っ暗になったユダヤ人美術館は冷え切っていた。ちょうどその時、空っぽの展示室の一室が期間限定で自由に見られるようになっている。かろうじて入り込んだ街の灯りが暗闇をつんざくような鬼気迫るデザインに、この空間に何もおいて欲しくない、という建築家の無言の主張がこちらににじり寄ってくるようだった。
Dinner is ready, it gets cold.
というメッセージがSから届いて急いだ。文字通り、ユダヤ博物館の前の通りの角を少し曲がったところに彼のフラットがある。
I can see you from my flat.
まさか、これが、というような象徴的な外観のそれだった。真っ暗な雲が浮かぶ空に垂直に伸びるコミカルな表情の建物。ベルリンの壁が崩壊する直前、1988年にできたのがKreuzberg Tower and Wing というアパートだ。
「エレベーターが一つだけあるから、それで10階に上がって」
という指示通りに建物に入った。無駄なものが一切ないインダストリアルなエレベーターのボタンは偶数の数字しかなかった。
エレベーターを開けるとSがしたり顔で待っている。普通じゃない空間に紛れ込んでしまったような顔をしている私の表情を見てニヤニヤしていた。パスタを茹で終わった彼は建物の説明を始めた。
Summer here is amazing.
ベランダは二人建つとぎゅうぎゅうになってしまうほどの大きさだった。一つのフロアに二つのベランダがあって、そこから旧西ドイツの街並みが一望できた。真っ暗な空の半分から下は見渡す限りの灯りだった。東京と違って、高い建物がひしめいていないので地面に灯りが浮遊しているようだった。
この建物はJohn Hejduk、チェコ出身のアメリカ人建築家による作品だという。ベルリン壁崩壊前の数年間、当時だだっ広くて何もない土地ばっかりだったチェックポイント・チャーリーで当時の有名建築家を集めてカウンシルハウスを作るプロジェクトが立ち上がった。結局、プロジェクトは長引き、最後まで完結することができないまま、ベルリンの壁が崩壊、その中で唯一出来上がったのがこの建物だという。各フロア、二階建てのメゾネットのようになっていて、Sが住むフラットは当時の内装がそのまま残っている数少ない部屋の一つだった。リビングが真ん中にあり、その両側にキッチンやバスルームや寝室に使うことができるような小さい部屋が付いている。Sが興奮した面持ちで話すのは、その小さな部屋が完全に真ん中のリビングから独立していて歩幅二歩分ぐらいのミニ廊下でつながっている。完璧に左右対称になった建物なのだ。
モダニスト建築に目がないSが興奮するのもわかった。リビングのテーブルにはHejdukの本が数冊積まれていた。まるで楽譜のような本だった。丁寧に和綴じされた本にはHejdukによるファンタジーのようなドローイングが記載されていた。目次のような最初のページにはHedjukの建築に関する考え方が凝縮したリストが掲載されていて、ObjectとSubjectが列になっている。例えば、ObjectがHotelの時はSubjectが Transients(移動者)、Farm Grove の時はThe Community、Apartment House の時はThe Dwellers. 建物の目的とそれを使う人の関係性がリストになっている。Hejdukは建物の機能をユニットに分けて、それをつなぎ合わせることで多目的のスペースを作ることを目指したという。建物の機能が十全に発揮されている理由だ。
さらにS が重要な情報を一つ一つ小出しにするように言った。
He was architect AND mysticist.
彼は建築家で神秘主義者だったんだ。
しかも専門は天使について。彼の建築には天使が降り立ったときのために用意された場所がある。建築は目に見えるもののためだけじゃなく、目に見えない存在のためのものでもある、というのが彼の考え方だ。
そう言いながら、Sはフラットの外に出て彫刻的なほど見事な螺旋状の非常階段を案内してくれた。そして、階段を覆う外壁についた鉄のオブジェを指差した。8つぐらいの鉄のボールがシンメトリーに配置されている。「飾り?」と聞くと、Sは真剣に答えた。
It has a function. I think it is the grip for Angels.
ちゃんとした機能があるんだ、天使が来た時につかまる場所だよ。
リビングに積み重ねられたHedjukの本にはおびただしい量のドローイングが記載されていた。どれも到底実現された建築図面の一部とは思えないほど突拍子もないものだったりする。ドローイングも今にも動き出しそうな形をしていて、思わず微笑んでしまう。このフラットがどこか生き物のように見えるのも頷くことができた。
Building were characters and characters were structures.
建物は登場人物で、登場人物が構造になっている。
帰り道、Sからメッセージが届いた。写真だけだった。それは香港の超巨大高層マンションの画像だった。ピクセルが集まったような巨大マンションのど真ん中が空いている。しばらく後に届いたテキストにはこう書いてあった。
This is the hole for dragon to pass through.
ニヤニヤするSの顔が思い浮かんだ。