歴史には、まるで呼吸をするかのように自然と知ることができるものと、そうでないものがある。両親から聞いたり、教科書に載っていたり、自分の街の風景に刻まれていたり、人は様々なきっかけによって過去を知る。ところが、当たり前の道筋に収まらない歴史が、今も尚、知られることを待っている。
知られざる歴史を照らし出そうとしている人がいる。彫刻家の親松英治は、あと数ヶ月で全長10メートルに及ぶ木彫の聖母子像を完成させるところだ。35歳のときに、「何か一生をかけて取り組むような」作品を作りたいと思い、キリスト教徒である親松は独自の解釈と技術で聖母子像を作ることを決心する。2015年現在、81歳。たった一人で作品制作を続け、それから50年近くが経とうとしている。
親松のアトリエは神奈川県藤沢市の修道院の敷地のなかにある。5年前、当時使っていたアトリエの移動を余儀なくされたとき、この修道院の人の紹介で使われなくなった農機具倉庫をタダで貸してもらえることになった。タダというほど有り難いものはないと、すぐさまアトリエを引っ越した。ところが、単なる二階建ての小屋の農機具倉庫の天高には10メートルを見下ろすマリア像の頭部は収まらず、まずは二階の床をぶち抜き、さらに屋根を壊して、マリア様のお顔一つ分が収まるように三階部分の小さな屋根を積み上げた。
木彫は人間の身体の体積以上の物質との絶え間ない対峙である。両腕の力では太刀打ちできないような重量の丸太を倉庫に入れるために、表にも裏にもある小屋の戸口の上に鉄骨をぶち込んで、滑車をとりつけられるようにした。それだけではなく、倉庫の至るところのコンクリート壁がむやみやたらにボロボロと崩されて穴が開いている。これも丸太を移動させるためだろう。もちろん、すべて一人で行ったこの倉庫の改造。齢70歳を過ぎてからの作業だ。
バブルのときは「電話一本、誰かと話すだけで」お金が入って来たから、木彫の材料もすいすい手に入ったものだという。ところがバブルが崩壊してからは、金の巡りがぱったりなくなって、展覧会で「売れる作品」をセッセと作ってそのお金を材料に変えていった。
いつ自分が死んでも作品の存在をわかってもらえるようにと、まずはマリア様のお顔から彫り込んだ。その表情には親松30代の手元が現れている。マリア像の肩から足下にかけては、息をのむように美しいドレープが表現され、表面には絶え間ない鑿の音が聞こえてきそうな、安らかで端正な彫り跡がどこまでも続いている。キリスト教の歴史のなかで何人の彫刻家が聖母子像を彫り貫いて来ただろう。連綿と続く彫像の歴史の一部となって、親松は聖母子像という造形について自問し、西洋と東洋の間を行き来しながら、今この場所にあるべき造形を探求してきた。その答えは、穏やかに抽象化された聖母子像のシルエットと優しさが染み込んだ母子の表情に凝縮されている。
「ここで彫っているとね、隣の修道院のシスターが頻繁にお祈りを捧げに来てくれるんです。カンカンカン、っていう鑿の音が気持ちいいって。有り難いことです。」
ここ数年でいよいよ取り組むことになった聖母子像の足下には、絶対的な強度を見込んで樹齢200年の楠を使った。その材料につぎ込んだお金で、立派なお風呂がついたアパートが買えたかもしれない。材料費を捻出するために、ガス代を節約して、日々シャワーしか使わない生活だというから、奥さんはいつも不機嫌だ。
カトリック教徒である親松は、この彫刻に取り組んでからしばらくして、ローマ法王にこの作品について「祝福」をお願いする手紙を書いた。すると、「Blessing」という言葉が入った返信が届いた。その後も、経過を伝える度に手紙が届くこと三度。その手紙は木彫の埃にまみれないように丁寧に額装されて、倉庫の入口のところに飾られている。
言わずもがな、この10メートルの彫刻はもともと設置場所や納期があって制作されたものではない。一人の彫刻家が、限りある人生の時間をじりじりと削り、生計と制作を両輪にかけて作ったものである。だからこそ、制作にかけた時間は彫刻家がこの時代のこの社会を生き抜くための必然だ。聖母子像の完成が見えて来たときに、はじめて親松はつぶやいた。さあ、この彫刻をどうしたものか。
聖母子像の設置場所の話が持ち上がったのはつい2年ほど前のことだ。修道院のシスターの知り合いで、長崎県は南島原に関係のある人がいる。シスターがその人に話を持ちかけてみようというのだ。南島原は、歴史の教科書にもある島原の乱が起きた場所だ。その戦いは教科書が語る以上に凄惨なもので、原城に立てこもったキリシタンが三万人以上も殺された。近代になって、その原城跡で発掘調査が行われたとき、鉛を溶かして作った手製のロザリオと切り跡のある人骨が大量に見つかったという。その近くにある有馬キリシタン遺産記念館が候補に挙がった場所だ。親松はその話が持ち上がってから、何度も南島原を訪れた。
「そこにはね、ここに置いてくださいと言わんばかりの、半円形状のホールがあるんです。天井高が10メートルですから。神様がここにお導きになったわけですね。」
来月3月に行われる市議会で決定が下されれば、正式にその場所に設置することが決定する。輸送は秋ごろ、それから組み上げて、1ヶ月かけてマリア像に着色をする。うっすらと表面に金色をまとう考えだ。
「もうね、何十年もこの彫刻と向き合っているのだから。そろそろ疲れてしまいましたよ。早く仕上げてしまって、あとは妻と温泉にでも行きたいです。」
設置場所が決まりそうだという知らせを聞いて、奥さんの顔が少しだけ和らいだ。大切なものなのだから、信頼できる人に輸送を頼むべきだと主張したのも彼女だった。親松はマリア像の輸送を、親子二代に渡って楠材を提供した材木屋に託した。若社長の山口は一人の作家の命を引き受けるような大きな責任におののきながらも、まずは下見のために南島原市を訪れた。原城がある南島原市は公共交通機関がなく、隣町の島原市にある島原駅からバスで1時間。山口は博多からレンタカーを借りて、4時間近くかけて南島原に降り立った。その旅から戻って来た山口は、大きな課題を背負って帰ったようにつぶやいた。
「市役所の人にも思わず言ってしまったよ。救いようがない場所ですね、って。でもね、思ったんだ。あのマリア像が設置されることで、南島原という場所が完成するよ。」
山口はこの一人の作家の人生をかけた作品に立ち会うことの尊さと大きな課題を分かち合うべく、親松のアトリエに若手の木彫作家20名ほどを連れていった。美大を出たばかりの作家は、10メートルの彫刻作品が成し遂げた技術的な偉業に興奮し、現在作品を世に出す40代の若手作家は、作家人生の課題を突きつけられるように、神妙な面持ちで親松の背中を見た。そして誰もが薄っぺらい農機具倉庫の壁の内側で安らかに祈り続ける彫像の存在感に圧倒されながらも、この作家と彫像を媒介に大きな歴史の細部に触れようとしていることに気付きはじめている。その熱い気持ちを抑えられない人々は南島原への旅を計画し始めた。こうして人間は自らの力で、声高に語られることのなかった歴史に耳を澄ます。
設置を目前にし、状況が一転してしまった。市長の辞職、再選挙が行われて体制が変わってしまったのだ。有馬キリシタン遺産記念館への設置が見送りに、その後、2018年現在、新たなる設置場所は決まっていない。