カオリンの行方

熊本・天草から長崎の島原を経て、有明海の海岸沿いを走る疾走調査に同行している。奈良文化財研究所の惠谷浩子さん率いる調査チームの企画で、地図を片手に実際に見て、歩いて、地形と地域の特性を記録しようとしていくものだ。天草の海岸から対岸の南島原を望むと海の向こうにうっすらと島のシルエットが見える。それほど対岸は近い。こんもりとした丸みのある島は「湯島」である。17世紀に起こった島原・天草の乱の際、島原、天草の農民たちがこの島で反乱の計画を練ったという理由で「談合島」とも呼ばれている。この海を熟知する人でなければ、どこか幻のような、海の上に浮かぶ雲のような影が本当の島だと思う人は少ないかもしれない。

熊本・鬼池港から長崎・南島原の口之津まではフェリーで移動する。車ごと乗船、縦列駐車を行うと車から降りて階段を登り、デッキに上がる。船が出発する様子を見ようと手すりに捕まって、ふと目線を下げると赤みのかかった土色がついた白い陶石を載せたダンプカーが乗っていた。天草は陶石の採掘で有名な場所だ。そんな話を車のなかでしていたので、まさか自分たちが今、島から出ようとする陶石を載せた車と一緒に船旅をすることになろうとは思っていなかった。話にしか聞いていなかった陶石の行方を追いかけるようで胸が高鳴った。以前、長崎県の磁器の窯元を取材したとき、もともと砥石として使っていた石が磁器の原料になる陶石だったと偶然発見したところから、磁器生産の歴史が始まったことを知った。しかも、佐世保のいずこかの海岸に打ち寄せられていた陶石を当時、朝鮮から連れてこられた陶工が見つけたことがきっかけだという。同じ素材でもスキルの違いで原料にも道具にもなることは忘れないでおきたい。

それから有田や波佐見など、九州で磁器の生産が盛んになると、天草で採掘した陶石を磁器生産に適した陶土にする必要があった。なかでも佐賀県嬉野市には陶土工場が多く、天草を出て陶土を積んだ船が有明海を通って、塩田津という河港に停泊したという。フェリーで陶石に出会ったのは何かの運命とばかりに、その日の有明海の調査の最終地点を佐賀県の塩田川沿いに定めた。

ところで有明海と言えば、潮の満ち引きで有名である。午前中に長崎上陸、口之津港に降りてから雲仙を巡って、昼食には元祖街道沿いの食堂で長崎ちゃんぽんの洗礼を受け、車を走らせて有明海を横切る。それまで潮の満ち引きなんて実感することがなかったが、ふと車の窓の外を見ると、漁船が砂地の上にどっしりと着地している。車は佐賀県の太良町に入ろうとしている。太良町の入り口を示す看板には「月の引力が見える町」とあって、突然、県の境も国の境も悠然と飛び越すような表現が私たちのもとに舞い込んできた。当たり前のようだが、潮の満ち引きは遠く宇宙の向こうの月の動きと連動しているのだ。この地域に住む人々は、毎日月の動向を感じながら漁業や農業を行っていると思うと、なんだか日々の仕事が崇高なことに思えてくる。なにしろ、有明海の海面の満ち引きを表す潮位は最大三メートルほどもあるというから、それに沿って生活の方法も工夫しなくてはならない。

その工夫のひとつが重い陶石の輸送にある。自分の体よりも大きな物体を移動させるのに、人間は知恵を使った。重い陶石を船に乗せて有明海を通り、川の上流にある陶土の制作所まで持っていくのに、潮の満ち引きのメカニズムを利用する。海の水位が上がっていくに伴って自然と河口に水が流れていくことを利用して、船を内陸に移動させていたという。佐賀県嬉野市の塩田津にはこうして多くの陶石を載せた船がやってきた。

船着場として栄えた塩田津の街並みを後にして、さらに嬉野の山の方に向かうと、水田の真ん中に大きな陶土工場がいくつも現れる。山の向こうに日が沈もうという夕方、ひっそりとした工場傍を車で通ると、表面に土色を残した陶石が積んである。敷地を囲むように水路が巡り、そこには水が豊かに流れ、静かな水田の風景に音を加えている。さらに車を進めるともう暗くなろうという時間なのにリズミカルな音を立てて機械を動かしている陶土工場があった。工場の敷地内にはたっぷりとした水の流れとともに建物を突っ切るように水路が配されている。ふと見ると、以前あった何かがごっそりとなくなったかのような大きな窪みが建物のなかまで続いている。おそらく、昔はそこに水車が回っていて、陶土を砕く動力になっていたに違いない。

熊本は天草から切り出された陶石は月の引力を借りて、佐賀の塩田川を登り、陶土の製作所に降り立った。月の動きが物流の動力になることを実感した疾走調査だった。